第179回 健康歩こう会(2015年4月18日)

【中野の隠れた名所を訪ねる】ウォーク

記: 田 口 憲 隆

00_大久保駅今月は、東京都・中野区を散策しました。中野区は都内の西部に位置し武蔵野台地の一角に位置します。江戸時代は畑作農業と味噌・製粉・醤油醸造など食品工業が発達し、江戸町民の食生活を支えました。明治中期以降、都心からの転居者が急増し、関東大震災以降は浅草から寺院が多数移り住み「小京都」の風情と為りました。戦前は陸軍が駐屯し「帝国軍人の街」と言われ、戦後は米軍が駐屯し米軍の物資横流しが有り闇市が形成され、その過程で駅周辺を中心に商店街が確立しました。現在は商業施設も整備され、新たに「中野四季の森公園」に「中野四季の都市」が出現し、更なる発展を目指して居ます。

01_「神田川」の歌碑

本日は明るい日差しの中を、JR・総武線「大久保駅」前に44名の会員が参集しました。

駅前に広場が無いので、神田川沿いの【末広橋】まで来ました。この橋の際の公園にて、会長の挨拶と共に、公園内に有る、歌曲「『神田川の歌碑」の説明が有りました。皆さん『貴方はもう忘れたかしら赤い手ぬぐいマフラーにして・・・・・』南こうせつとかぐや姫が歌って大ヒットした歌謡曲です。作詞家・喜多條忠が、大阪府から早稲田大学へ入った時に「神田川」沿いの下宿に入居していました。南こうせつが『明日録音が有るので、一曲作詞して欲しい』と依頼され、帰宅時に通り掛かった「末広橋」から神田川を見た時に、東京へ出て来た頃が走馬灯の様に思い出され作品にしたのが大ヒットと為りました。発想のチャンスを与えた「末広橋」に感謝です。こんなコメントを残されて居ます。

02_中野氷川神社

大久保通りを更に行くと【中野氷川神社】が有ります。

「中野氷川神社」は長元3年(1030年)に、源頼信公が平忠常征討の際に武蔵一宮大宮氷川神社より勧請したもので、旧中野村の総鎮守と為っています。9月の祭礼には神輿や山車が出て中野駅北口・中野駅南口を初め、なべや横丁から東中野迄、幅広い範囲で祭りを楽しみます。

一行は「山手通り」に入り北上し「東中野駅」の前を横断して、斜め北への道を進むと「早稲田通り」に出ます。左折して進むと【高徳寺】が有ります。

「高徳寺」は、真宗大谷派の寺で、荒居山法喜院高徳寺と称し、1100年に長野県松本に一寺を開き、以後、群馬県荒居に移り、元和2年(1616年)千葉県久留里に移り、その後、江戸浅草清島町に移るも、明治41年(1908年)区画整理により現在地に移転しました。太平洋戦争の折に空襲に遭い本堂・庫裏を全焼し、本堂は昭和57年(1982年)再建しました。特に当寺には江戸中期の朱子学者「新井白石」が68年の生涯の内2度に亘り、当寺に寄食されました。03_高徳寺延宝3年から5年間は貧苦不遇な時に勉学に勤しみ、元禄4年から3年間は数々の著作に取り組み「折たく柴の記」も書かれました。これを記念して「新井白石記念ホール」が御座います。

墓地には「新井白石」を始め、美容家・山野愛子、芸能人・沢村国太郎、長門裕之、南田洋子の墓が有りました。

「高徳寺」を出て、北へ進むと【萬昌院功運寺】が見えます。

「萬昌院功運寺」は「久宝山万昌院」と「竜谷山功運寺」両寺が、1948年(昭和28年)に合併したものです。「久宝山万昌院」は天正2年に、今川義元の子・氏真の第4子・長得が群馬県室田の長年寺より仏照円鑑禅師を招いて開山しました。「竜谷山功運寺」は慶長3年(1598年)桜田門外に創設された曹洞宗の寺で、移転を繰り返し、大正11年(1922年)三田から当地に移転しました。墓所には、吉良上野介、旗本・水野重郎佐衛門、絵師・歌川豊国、作家・林芙美子などが、眠って居ました。

一行は桜ヶ丘通りを北上し、妙正寺川を渡ると【哲学堂公園】に入ります。

04_哲学堂公園1

「哲学堂公園」は、東洋大学の創設者である故・井上円了博士が明治37年、文京区白山に開設した哲学館大学(現・東洋大学)を記念して、この地に「四聖堂」を開設したのが最初です。四聖堂は、孔子・釈迦・カント・ソクラテスを祀り、「哲学堂」とも呼びましたので地名の由来と為りました。

2年後、「精神修養公園」と指定し次々と哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として整備された全国にも例を見ない個性的な公園に発展しました。事実その後、「六賢台」「哲理門」「三学亭」「宇宙館」など次々に建立し例えば木造六角塔「六賢台」には日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅仙の6人を「六賢」として祀って居ます。

一行は「六賢台」をバックにして集合写真を撮りました。

05_哲学堂公園2

「哲学堂公園」は、井上円了・没後、本人の遺志で昭和19年に東京都に寄贈されました。その後、1975年(昭和50年)中野区に移管され、2009年(平成21年)に「東京都の名勝」に指定されました。

園内には大半の建造物が残り、庭園には池等も有りますが「哲学の庭」も有ります。「第一の輪」には“思想を創った"老子、キリスト、釈迦、アブラハム、エクナトンの立像が有り、「第二の輪」には“悟りの境地に達し実践し成果を挙げた人"達磨大師、聖フランシス、ガンジーの立像が有り、「第三の輪」には“法を創り現存する法律の基礎を作った人"聖徳太子、ユスチ二アヌス(ローマ法)、ハムラビ(バビロン法)の立像が有ります。哲学に造詣の深い方には終日見ても足りない程の公園ですが、トイレ休憩を含めて幹事の説明を聞き乍ら散策しました。

一行は「中野通り」を南下して【新井薬師】に入ります。

06_新井薬師

「新井薬師」は真言宗豊山派の寺で正式名称を「新井山梅照院薬王寺」と称し、天正14年(1586年)僧・行春に寄って創建され、本尊は空海作と伝えられ、表は薬師如来、裏は如意輪観音とする2仏1体の黄金像で高さ1寸8分(5.5cm)の御尊像です。特に「眼病治癒」に御利益が有るとして有名ですが、江戸幕府2代将軍秀忠の5女・東福門院が当寺の薬師如来に平癒祈願した処、忽ち回復した事が知れ渡り「眼の薬師」として、又、5世祖師・玄鏡が元和3年(1617年)如来の啓示により、優れた小児薬を調合した事から「子育て薬師」として多くの信者に篤く信仰されて居ます。尚、寺と同規模の公園が併設されて居ました。本日は境内に露店が出て鉢植えの園芸、衣料品などと共に、“干し柿"と“南京豆"を売る店が多くの客を集めて居ました。干し柿と南京豆が自由に食べ放題の様に試食させていたのです。歩き疲れに丁度良い甘味料としてはベストマッチとなり多くの会員がその場を離れず、出発時の支障と為りました。

「新井薬師」を出て、中野通りを南下し“薬師商店街"を進みます。中野通りと並行して「中野ブロードウェイ」とか「中野サンモール」と言う中野地区のショッピング街が有りますが、本日は寄らずに【中野区役所】の方に向かいます。

07_中野犬屋敷跡

一行は「中野区役所」の前に集結しました。そこには数頭の「犬の石像」が戯れて居ます。

ここが【中野犬屋敷跡】です。江戸幕府・5代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発して、「犬目付」を設けて犬の虐待を取締り、野良犬の保護の為に喜多見・大久保・四谷・中野に保護施設を造りましたが、その施設が有った場所で最盛期には30万坪の広さに8万頭の犬が住んでいました。その後明治時代には陸軍関連施設と為り、戦後は「警察庁警察大学校」と「警視庁警察大学校」が設立され、2001年に警察大学校が移転し、現在は「中野区役所」と防災に特化した「中野四季の森公園」が建って居るのです。又、公園には大学を始め企業が集結し「中野四季の都市」として都市形成が為され、今後の期待が高まって居ます。

ここで本日のウォーキングが終了と為り、会長の挨拶と5月開催の「高尾山・登山」の告知と参加要請があり、散会となりました。

JR「中野駅」に向かう左側に【中野サンプラザ】が有ります。「中野サンプラザ」は、昭和48年(1973年)開業したポップス・ロック・ミュージカルとあらゆる音楽の広場として、コンサートホールを提供して居ます。本日も来場予定者が並んで賑わって居ましたが、「中野サンプラザ」も近々、本格的な解体再整備に入る様です。