第158回 健康歩こう会(2013年7月20日)

【善福寺池】ウォーク

記: 田 口 憲 隆

井荻駅今月は、東京都杉並区を散策します。ここ杉並区は昭和7年10月に誕生しました。東京23区の西側の武蔵野台地の上で、人口543,182人、面積23.02㎢、23区中8番目の広さを有して居ます。地名の由来はこの地を治めていた領主・岡部氏が領地の境界のしるしとして青梅街道沿いに植えたと伝えられる杉並木に始まります。明治に入り杉並木は無くなりましたが、「杉並」の名は「村名」に採用され、「町名」、更には「区名」となり今日に至って居ます。

本日は曇り空の下、元気な会員 49名が参加されました。集合時間に合せて参議院選挙の街頭演説が始まり、急遽近くの広場に移動してから会長の挨拶、有田幹事のストレッチ体操に続き、コースリーダーの田口顧問からコース紹介があり、駅前を出発しました。

科学と自然の散歩みち商店街の一つ裏の道が、本日のコースに掲載されている【科学と自然の散歩みち】です。この道にはエピソードが有ります。平成14年12月に小柴昌俊さんが、ニュートリノの発見によりノーベル物理学賞を受賞しました。小柴さんは杉並区民でしたので、早速 区議会に諮り、小柴さんを名誉区民の第1号として平成15年1月に「杉並区・名誉区民賞」を贈呈しました。その折に「区民としての要望がありますか?」と聞いた処、「近所を気持ち良く散歩できる、遊歩道を周回出来るようにしてほしい。区民の人達がのんびりと歩き、すれ違う人と『良いお天気ですね』と挨拶する、子供も遊んでいる、そうした中で一回り出来たら楽しい!」と話されました。これを機に検討に入り平成17年3月に小柴さんの希望を叶えた『みち』が完成しました。夢の卵 途中には、子供が水辺の植物を知る事が出来る「ビオトープ」が有り、又、玄武岩・安山岩・始め8種類の岩を並べ比較検討できる場所も有り、市民の方々も手作りで樹木の名称・特徴を書きカードを樹木に下げる等協力をして居ます。道の途中に“大きな卵”の石碑が点在しています。『夢の卵』と書かれ、小柴さんの手形が左右に付いて有り、“子供に夢は叶うもの”と呼びかけて居ます。

「科学と自然の散歩みち」を進むと【妙正寺公園】に到着です。公園にはメタセコイア・ケヤキ・アケボノ杉・桜などの大木が並び 木製遊具・砂場の遊具コーナーと運動コーナーが有り、大小3つの噴水が様々な形の水飛沫を上げる「妙正寺池」が有ります。この池は「井の頭池」「善福寺池」と共に、徳川家康が江戸に入府して最初に手掛けた、生活用水確保の一つとして神田川に流れる水の水源地として活用した事で有名です。 トイレ休憩の後、一行は公園を離れて一般道に出て進むと 右手に【妙正寺】が見えてきます。妙正寺 「妙正寺」は文和元年(1352年)中山法華経寺の第三世日祐上人がこの地に御堂を建て、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大神など三十番神を勧請したのが草創で、特に慶安2年(1649年)3代将軍・徳川家光が鷹狩の折に、『三十番神堂』の神前に武運長久を祈願し、「葵の紋幕」と「朱印地5石」を寄進した事から『御朱印寺』として一層有名に為りました。当寺の鬼子母神は『生毛鬼子母神』と称され、安産に霊験有りとして、江戸城大奥に鎮座していましたが、天保の改革での大奥粛清の時に、この寺に移され多くの信仰を集めて居ます。又、墓所の入口に「囲碁第六世本因坊・井口知伯」の墓が有ると明記されていますが、井口家の墓が多数あり、特定出来ませんでした。

妙正寺を出て、狭い歩道を歩き「環八通り」を横切り進むと、【観泉寺】に到着です。総面積が1890坪で宝珠山観泉寺と言い、本尊は釈迦如来で、「今川家」の菩提寺です。観泉寺有名な今川義元が桶狭間の合戦で織田信長との戦いに敗れ戦死して以降、息子氏真が家督を継ぐも 徐々に三河の支配権も喪失し駿府も喪失し最後に北条家に頼る事となり、桶狭間の合戦から8年で戦国大名としての今川家は滅亡しました。紆余曲折を経て今川氏真は徳川家康の庇護を受け、近江国野洲郡に500石の知行を安堵されます。その後、今川義元の曾孫(ひまご)に当たる今川直房が江戸幕府の高家職として秀忠、家光、家綱の3代に勤めます。特に正保2年(1645年)家康への「東照大権現」の宮号宣下の折に、将軍の名代として京都への使者を務めその功により、家光から武蔵国多摩郡井草村(現・杉並区)に500石加増され、今川家は都合1,000石の家禄と為りました。直房の官位は今川家歴代の最高位である「左近衛少将」迄昇り、子孫から中興の祖と仰がれました。この事からこの地が今川一族の居住地となり、「観泉寺」を菩提寺と定め、江戸時代の一族の菩提寺に為りました。又、観泉寺は今川氏の知行地支配の拠点であり、領民からの年貢の取立てや裁判などが、門前で行われました。今日でも「今川町1丁目」から「今川町4丁目」の地名が残っています。墓地には、今川家累代の墓所が有り、氏真の宝筐印塔を始め、歴代の墓石が並んで居ますが苔生して戒名も読めない程、風化して居ました。

ここで豆知識。江戸末期には、当主・今川範叙は、高家出身として唯一の「若年寄」に就任し、官軍との講和・江戸城の開城に際して尽力しました。 しかし明治維新後は、他の士族同様に家禄を失って没落したうえ、一人息子の淑人にも先立たれました。1887年(明治20年)、範叙の死によって23代続いた、今川家の本家の血筋は絶え、断絶しています。

「観泉寺」を出て、住宅地を暫く進むと「青梅街道」に出ます。交差点を渡り右に向かうと大きな鳥居が有ります。井草八幡宮井草八幡宮】の東門です。戦前までは脇門として脚光も浴びなかったのですが、従来正門で実施されていた5年に一度開催される『流鏑馬』の奉納を、戦後は直線距離が長い事から、東門に移され親しまれる門と為りました。『流鏑馬』の準備の話を聞いて、正門に周ります。 ここは青梅街道と早稲田通りの交差点に位置する事から、通行量も多く正門には、鳥居では無く高さ9m屋根は銅板葺きの「大灯籠」が一対建っています。神社の由緒書から宝物の紹介等の説明板があり、東門より豪華さを感じる景観です。「井草八幡宮」は820年前の創建当時には「春日宮」を祀っていましたが、源頼朝公が参拝してから「八幡宮」を奉斎する様になり。古くは地名から「遅野井八幡宮」と称していました。 参道を進むと鳥居がありその先に「楼門」が有ります。随神が一対納められています。楼門を潜ると境内です。「神楽殿」「神輿庫」「招神殿」「社務所」が囲み、中央に【頼朝公・お手植えの松】が有ります。源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡征伐の折に、戦勝祈願をしに立ち寄りました。頼朝が奥州平定後立ち寄り奉斎の為、本宮の社殿前に、雌雄2本の松を植えられました。 一説には鎌倉に帰還し、4年後改めて来宮して松を植えられた、との説も有ります。この松の内、雌松(赤松)は明治初年に枯れましたが、雄松(黒松)は、高さ40m,周囲5mで東京都の天然記念物と為り、昭和47年に強風で大枝が折れ、翌年には残念乍ら枯れてしまい、現在は2代目の松が植えられています。 尚、昭和48年に枯れた松の根株は輪切りにされて、神殿を囲む回廊に保存され参拝客が見る事が出来ます。善福寺公園皆さんは神門を潜り参拝して 改めて頼朝公お手植えの「松の根株」をご覧に為りました。 参拝後一行は「神門」前で集合写真を撮り、「招神殿」側から裏門を出て、住宅地を進むと 前方に森が見えて来ます。

次の目的地【善福寺公園】と為ります。公園には『善福寺池』が2つ有り、大きな池を「上の池」、下流側の小さな池を「下の池」と呼んでいます。「妙正寺池」の折に紹介した様に、江戸の生活用水・確保の水瓶の一つでした。家康が幕府を開いた頃の江戸の人口は15万人であったと伝えられています。 現在は「井の頭池」(井の頭公園)「三宝寺池」(石神井公園)と共に「善福寺池」が武蔵野三大湧水地として知られ、昭和36年6月に公園整備されました。この池から流れ出した水が「善福寺川」となり、荻窪を通り和田堀公園から大宮八幡宮まで「健康歩こう会」として 皆さんと歩いたのが、平成22年10月の事でした。

先ずは「上の池」を周回します。ボート遊びが出来ますが水蓮の群生地もあり、岸辺には保護の為に無数の杭が打たれて居ます。又、カルガモ、カイツブリ、バン等の水鳥を始め、各種の蝶が舞い、平家ボタルも放流され季節を彩ります。遅野井の滝 一行は池の北側を歩きベンチも見える広場で小休止です。 休憩後池を廻り込み南側の散策です。池の脇に小さな滝が見え「遅野井の滝」の案内が見えます。 源頼朝が奥州征伐に井草八幡宮で誓願をして無事征討を終え帰路に着いたのは、干ばつ続きの最中で、荒川で喉を潤した以後は水に縁がなく、軍勢は渇きに苦しみました。善福寺池に期待しましたが、池は枯れ果てて居ました。頼朝公は池の畔に建つ「市杵島神社」に祈り、自ら弓の下弭(しもはず)を使い、池を7か所掘りました。軍勢は渇きのあまり水の出るのが遅い、遅の井と囃し立てました。その時忽然7か所に水が湧きだし、軍勢は無事に渇きを癒しました。鎌倉に戻った頼朝は、江の島弁財天をこの地に勧請しました。以後地元の人はこの社を弁財天と呼ぶ様に為りました。

公園内に紳士の立像が有りました。これは地元の英雄を称える銅像です。「内田秀五郎」と言い、明治39年30歳にして全国一の年少村長となり生涯を村の為に尽くし『地方自治開拓の慈父』と言われた人です。具体的には、大正10年「電燈」を敷設し、昭和7年に「水道」を敷設し、昭和8年には町費の60%は教育費と決めて、「桃井第2小学校」を始め4校設立し児童の通学負担緩和を図り、昭和10年には全国唯一の「大区画整理」を断行し青梅街道を幅員25mに、碁盤の目の様な整った住宅地を造り井伏鱒二らの入居が実現した。又、大正11年の中央線開通に際しては、駅用地430㎡を寄付して「西荻窪駅」を開設し、昭和2年 西武新宿線開通には鉄道用地格安提供と3駅用地の寄付により「下井草駅」「井荻駅」「上井草駅」を設置させました。更に武蔵野の自然景観保護にも力を入れて東京都風致協会が設立されると私費を投じて善福寺周辺1万坪を購入し東京都に寄付して、今日の「善福寺公園」の基礎を築いている人物でその後、都議会・議長、全国農業委員会協議会・会長(現・全農?)を歴任し、昭和19年には藍綬勲章を授与されています。一行は「上の池」を一周してボート場へ戻って来ます。休んで居られた会員の方々と合流して、「下の池」を進み、市街地へ向かいます。

東京女子大学善福寺公園を出ると直ぐ右側に【東京女子大学】のキャンパスが続きます。当初見学を計画し見学許可を求めましたが、『守衛などの増員が出来ないので許可出来ない』旨、丁重な断りが有り見学中止と為りましたが、 序でながら概要をお話しました。「東京女子大学」は、5000円札でお馴染みの人物・『新渡戸稲造』が設立し初代学長に為りました。新渡戸は熱心なキリスト教信者で有りましたので、ミッション校としてスタートしました。 当初は大正7年1月に新宿区角筈で、教師12名、生徒84名で開校しましたが、新渡戸は同年5月に国際連盟・事務次長としてジュネーブ勤務となり、その為、設立代表者として資金集めに活躍したのがオーガスト・ライシャワー氏でした。キリスト教長老派宣教師として来日し、明治学院・高学部長の傍ら、本校の設立に際し在米協力委員会との折衝を始め北米のキリスト教会に基金募集を依頼し、24年間常任理事として財政面の中心となり、アントニン・レーモンド設計による現・文化庁登録文化財である「チャペル・講堂」「本館(旧・図書館)」「理事長宅(ライシャワー館)」などを建設し、大正13年に現住所に移転しました。 尚、駐日アメリカ大使を務めたエドウイン・ライシャワー氏は、オーガスト・ライシャワー氏の次男でした。

善福寺公園から「西荻窪駅」迄の1.5kmは、狭い道にバスも走り車を避けながらのウォークでしたが、女学生が好みそうなレストラン・喫茶店などが並ぶ洒落た道でした。西荻窪駅

本日は数日前までの猛暑が嘘の様な、曇り空に微風が吹き 爽やかなウォーキングと為りました。駅前で、会長から 次月の渋谷ウォーク」の紹介参加要請が有り、散会しました。