
20歳 新たな旅立ち
「東京支部2014年度総会・20周年記念セレモニーから」
桜花爛漫の4月5日、記念すべき20周年を迎える東京支部の新年度総会(第20回)が、シーバンスS館22階の多目的ホールで開催され、前年度事業・会計報告、新年度事業計画・会計予算、役員選出など議題すべてが滞りなく承認されました。
今回は20周年記念セレモニーを兼ね、社友会本部から御手洗会長を来賓としてお迎えし、シャープ(株)水嶋副社長に特別講演をお願いするなど特別なプログラムを用意。また、東京支部の発足から今日まで、その発展に尽くされた7名の方々を称え、全員の拍手で顕彰するという和気藹々の一幕もあり、例年以上に盛り上がりました。
本日は、東京支部にとって記念すべき第20回目の総会であり、御手洗会長様、会社から加藤東京支社次長様のご臨席を賜りました。また、総会に引き続いて支部発足20周年の式典を行い、水嶋副社長様から記念講演として、シャープの再生をかけた新たな事業領域について、貴重なお話を伺うことができました。
私は、一昨年4月に支部長を拝命した際にも申し上げましたが、会員間のコミュニケーション強化と、会員の高齢化対策を重点課題とし、特に後者について、まずは執行部の若返りをめざし、同じ年代への施策を行うことにより、会員構成の世代交代を図ってまいりました。
本日の総会でもその趣旨に沿って新しく3人の若手幹事を推挙、ご承認をいただきました。今後とも忌憚のないご意見、ご提案をいただきながら運営にあたってまいります。よろしくご支援ください。
東京支部発足20周年、おめでとうございます。36名で発足された東京支部が今や650名を超える、最大の支部に成長されました。特にインターネットを駆使した東京支部独自の情報交流システムは、本部や他支部のお手本ともいうべき存在で、歴代支部長さん、役員の皆さんのご尽力はもちろん、熱心に参画されている会員の皆さんに心から敬意を表します。
社友会の取り組みとしては、・会員への情報サービス・同好会活動の支援・社会貢献活動の推進が3つの柱で、それぞれ熱心な取り組みが展開されていますが、新入会者の減少、退会者の増加傾向という近年の状況に対処するためには、「社友会の新しい魅力」を発掘する必要があります。東京支部の皆さんのさらなるご尽力、ご活躍に期待して祝辞とします。
日々是好日
皆さんの暮らしぶり拝見
槍ヶ岳登頂で「喜寿」の前祝い!(下)
山 下 良 二
喜寿を前に意気軒昂、思い切って3,000M級登山を目指し、そのなかでも難度の高い槍ヶ岳(3,180M)に目標を定めて某社の企画に参加した。春から毎月岩場の多い山々に登ってその実地指導登山を重ねた甲斐あって、悪天候の中ではあったが、ついに槍ヶ岳山頂に立った。
翌朝はだれかれとなく四時頃から起き始めた。夜明けが感じ始められたころ少し厚着をして小屋の外に出て見た。昨日と変わって完全に雨は上がっていた。やがて始まる日の出前の静かな光景が目の前にあった。
夜明け前の空は、冨士山や北岳の山頂で見たのと同じように薄い灰色で覆われていた。少しずつ明るさが増してきた。その色が茜色に赤く染めはじめた。そしてそ の色をさらに濃くしてきた。見事なモルゲンロート(朝日が山肌や雲に当たり赤く染まる朝焼けのこと)だ。
やがてゆっくりとしかも眩いばかりの黄金の輝きをもった太陽が顔をあらわしはじめた。一望千里雄大な夜明けとなった。眼下の山々から遠く地平線の山々がまさに深山幽谷の姿に見えた。しばらくの間、日の出の感動と至福の時が過ぎていた。そして急ぎ朝食をとった。一汁一菜の朝食も今朝は美味く食べることが出来た。
下山を前に地元ガイドから360度の展望のなか、見渡す山々の説明があった。穂高連峰、立山連峰、常念岳、笠ヶ岳、雲の平、薬師岳等北アルプスはもとより中央アルプス、南アルプスの山々、浅間山、八ヶ岳連峰そして遠くに冨士山までも望むことが出来た。下山をはじめると、ところどころに霜柱が残っており、早くも冬の近づきを知らせるように思えた。
下山ルートは天気が回復したので当初の予定通り槍平小屋から白出沢出会、新穂高温泉バス停ゴールまでとなったが、登りと同じように長いガレ場(石や岩が堆積していて歩きにくい斜面のこと)が続いた。出発してから間もなく急坂のガレ場で男性が転倒し、打撲擦傷の軽傷をした。幸い滑落は免れたもののガイドが応急処置をして出発した。遅れが出始めた。
梓川の源流にもなる山岳だけに多くの沢を渡った。ほとんどの沢は巾4、5メートル程度で足元の安全を確かめながら水面から頭がでている岩をたよりに渡る。雨の多い日が続いたことで水嵩も増して勢いもあった。雨の中の昨日までと違って、快晴の今日は一夜にして沢の水は透明になっていた。
槍平小屋を過ぎてほぼゴールまでの中間地点に差し掛かったところで、川幅150メートル以上もあろうかと思われる大きな沢に出た。河原には直径1メートルから2メートルもあると思われる岩がごろごろしていた。平地では見られない急斜面な山岳の河原をあらわしていた。はじめて手すりのない木道橋に差し掛かった。人が1人やっと通れる幅で10メートル程度の長さだ。水面までは人の背丈ほどの高さで1人ずつこわごわとゆっくり渡る。渡り終えると今度は水面から直径1メートル以上もある岩を大股で2,3個渡りきらないといけない。私より4人前を歩いていた女性が勢いをつけて飛び渡ったところ背中のリュックの重みでバランスを失い沢に転落した。水中からでている岩に顔面を打撲し擦傷、メガネが破損して怪我をした。ガイドがすばやく手当てをしたが、幸い頭には損傷はないようで意識もはっきりして大事にならなくてよかった。下山中の事故は登山事故の7割を占めると言われるほど多く、全員気を引き締めるよう注意された。
しばらく足もとの悪い河原を歩くと、もう一本の木道橋を渡らなければならない。ところが昨日までの雨で水嵩と流れが増したことで橋脚の片方はロープで固定されているが、向かい岸のロープは岩から流され渡ることが出来ない。われわれもガイドと一緒になって岩場伝いに渡ることが出来ないかあちこち探したが、どこも流れが速く適当なところが見つからない。結局ロープが流されておる橋脚を沢から引き上げ岸に設置することにした。幸い木道橋が架設されていた場所の水深は思ったほど深くないことがわかり、沢登りの経験者のアドバイスを受けながら橋脚を引き上げ岸に据えることが出来た。やっと沢を渡ることができたが、下山時間はかなり遅れをとった。
先程の2件の転倒事故につづきこの木道橋のアクシデントにしろ、いつ何が起こるか分からないのが登山の怖さということをあらためて知ることが出来た。
昨日の長時間にわたる冷たい雨に打たれての厳しい登山に加え、思わぬアクシデントがつづいた下山にみんなは疲れ果てた状態だった。やっと最後の休憩地である穂高平小屋に到着したが、すでに夏山シーズンを終えた小屋は、8月末で閉まっていた。
小屋の前のベンチで給水をとった後、ゴールの新穂高温泉バス停までの1時間の道のりをひたすら歩きやっと帰路につくことが出来た。
喜寿の前祝いとして計画した長丁場の「槍ヶ岳登山」を無事完結することが出来て、いまは達成感と充実感に満たされているが、更に次なる計画に向けてこれからも積極果敢に取り組んでいきたい気持ち一杯だ。しかし、加齢による体力の衰えを日々の継続的な運動でどこまで先送り出来るかを自問自答しながらの格闘が続く日々である。
何はともあれ、蓄積されてきた今日までの健康に乾杯し喜寿の前祝いとする。(完)
日々是好日
皆さんの暮らしぶり拝見
続・イタリア見聞録②
松 岡 賢
イタリアレストランを経営している娘夫婦が料理とワインの研究にと計画した20日間のイタリア旅行、孫も一緒だからと誘われてわが夫婦も参加した。ベネチアに2泊、フィレンツェで3泊、ベットロ4泊と重ねてきた長い旅もいよいよ後半に入る。
今日から永い旅行も後半だ。ボテーレ・ラ・チェッパホテルに別れを告げオルチャ渓谷・チヴィディバニョレッジョ観光に出発した。相変わらず、ブドウとアーモンド畑を縫って高度を上げていくとオルチャ渓谷・チヴィディバニョレッジョに着いた。
丁度、洗面器の真ん中に天空に突き出すように小さな町がある、まるで「天空の城ラピュタ」を思わせるような何とも不思議な景色だ。この町は「滅び行く町」「死に行く町」とも云われている。1880年代の大地震で周りが陥没しこの町だけが残ったそうだが、その後、風雨にさらされた丘は浸食が原因で徐々に崩れ落ち小さくなってしまって、住民も今では15人ほど、廃墟の町と化してしまった。今も続いている浸食により小さな町は消えてなくなる危険にさらされている。ここに行くには300mほどの橋を歩いて行かねばならず、また駐車場からここに行くには高低差のきつい道を上がり下がりしなければならない。暑いわ、汗が出るわ、息が上がってしまって、孫娘に手を引っ張ってもらう始末…やはり年には勝てないな。
今日はオルヴェートの町、ドーモの近くにあるホテルに早めに戻り明日のアルベロベッロへの約500㎞強行軍に備えることにした。
さあ今日は強行軍だぞと7時に出発した。高速道路を走って分かったことだが、日本のように眺望を妨げるウットウシイ防音壁がなく、中央分離帯には植え込まれたアカシヤの木の赤色・白色の花が美しい。走るにつれて車窓から眺める風景が移り変わる。ブドウ畑、アーモンド畑、放牧されている牛・ヒツジの群れ、そして遠くその向こうの小高い山の上に教会や町の家々があり、それがローマを過ぎたあたりから道路のわきに工場群が立ち並び更にナポリを過ぎて少し走るとどこまでも広がる丘陵の上に、ズラーと並んでゆっくり風を切りながら回転しているたくさんの風力発電の風車が見えてくる。グラビア写真や映像では見たことがあるが生で見るのは初めて、いかにものどかな風景だ。高速を降りて一般道に入ると、ここには石灰岩層が広く覆い、痩せた大地が広がる。ここではブドウ畑やアーモンド畑が見当たらず、農作物も育たなく貧しい地区だそうだ。
娘1人の運転だから何度も途中で休憩しながら午後3時ごろ無事アルベロベッロに到着した。石畳みの道、真っ白に塗られた石の壁、石灰石を積み重ねただけの灰色のトンガリ屋根、円錐形のトゥルッリの集った様はおとぎの町のようだ。
なぜこのようなユニークな建物を建てたのか、それはかっての領主が家に課税しようとしたために、すぐに壊せる家を建てたということだが、そのためにトゥルッリは漆喰を使わず石の組み合わせだけで立てられている。今でも1000戸程度残っているらしい。今夜はそのトンガリ帽子のトゥルッリのホテルに泊まるので楽しみだ。
部屋の広さは6~7坪程度で壁は石がむき出し、吹き抜けの2階があり、1階と2階にそれぞれベッドがある。夏は涼しいが冬は寒いだろうな。ホテルのサービスもよかった。チェックインすると部屋に果物の差入れがしてあつた。今回の旅行で初めてだ。おいしくいただいて、しかし量が多かったので食後に食べようと残しておいたのだが、町中を散策してその後いつもの通り、レストランで夕食を済ませて帰って来ると、楽しみに残しておいた果物はなくその代りにお菓子が置いてあった。
このホテルでは客に断わりもなく従業員が部屋に出入りするのかと不審に思ったが、お菓子の差し入れに惑わされて荷物のチェツクをしなかったのが間違いだった。しかし2日後になって旅行バッグに入れておいた女房の腕時計と指輪が抜き取られていたことに気が付いた。「なぜそれまで気が付かなかったのか?」って。それは女房がベネチュアでおもちゃのようなベネチュアグラスでできた美しい腕時計と指輪を買って、それらを使い、日本から持って行ったものはカバンに入れていたから、無くなったことにすぐに気が付かなかったというのがその理由だ。素晴らしいホテルだと思っていたのがいっぺんに吹っ飛んで嫌になった。
午前中はゆっくりくつろいで午後より次の宿泊地であるマテーラに向け出発し3時ごろ到着した。長靴の形をしたイタリア半島のかかとに位置する世界遺産にも登録されているマテーラ、今まで経験したことのない息をのむような異様な風景に出会った。
二つの峡谷に沿って絶壁の岩を削ったサッシと呼ばれる4000を超える驚くべき洞穴住居群である。旧石器時代から人が住み着き、何世紀もの間いろいろな民族の戦いに巻き込まれ弾圧され虐げられてきた、現在でもイタリアで最も貧しい町である。
洞窟住居の中でヒツジや豚が同居するという暮らし…衛生面で問題があるということで1952年になってやっと法律により立ち退きさせたと云う。現在は観光目当てのホテル、レストランや土産物店が進出し石灰岩に掘られた竪穴住居の上に家が建てられ、そのまた上に家が積み重なり、もうどこからどこまでが山で家なのかわからない・・その一つのホテルが今夜の宿だ。山の上にあるホテルに荷物を引き上げるのはキツイ、エレベータもエスカレータもないのだから・・・。荷物を片付けてから町へ出た。石段を上へ上へと教会のあるところまで昇ったが、石段に沿って家が建てられているから驚く。本当に人が住んでいるのか、住んでいるなら毎日このキツイ階段を…と、とてもとても。
ついこの間まで人が住んでいたという竪穴住居も見学したが、家の中央に背の高いベッドがあり、そのベッドの下に汚物を入れる桶が置いてある。そして2mほど離れたところに家畜の寝床がある…こんな生活を20世紀までしていたのだと思うと…何とも云いようがない。
(つづく)
日々是好日
皆さんの暮らしぶり拝見
「そば」で繋がる ながーい友達の輪
有 田 知 義
手打ちそばを初めてもう10年が経ちました。なかなか上達しませんが何とか格好がつく様になりました。そば打ちはやればやるほど難しいなあと言うのが最近の実感です。
前回、前々回とそば打ちやそばの栽培などを報告させて頂きましたが、最近は所属している3つのそば会で月1回の練習会を行いながら、いろいろの行事や催事に協賛したり、プライベートなそば会を行い楽しんでおります。
地区センター事業の「素人そば打ち教室」は応募者も多く抽選で参加者を決めることもあるそうです。地元の横浜泉区中川や上飯田地区センターでは参加希望者が大変多く、年間行事に取り上げる検討も始めておられるとも聞いております。定年後にやってみたいことに「そば打ち」を挙げる方が大変多いそうで、私も実感しています。
麺と言えば、「ラーメン」「うどん」「そば」を皆さん想像されますが、「ラーメン」はいろいろの具材が要り、汁作りも大変です。また「うどん」は一晩寝かせます。その点「そば」は1時間以内に出来て、材料は「そば粉・つなぎ(小麦粉)・水」だけです。一番手軽に出来ることが一番やってみたいことなのでしょうね。その上「太い・短い」などの出来具合の如何にかかわらずそれなりに美味しく食べられるのが魅力です。家族にも喜んでもらえます。これらの「お試しそば打ち会」を経験された方の何人かが「是非会に入れて下さい。もっと美味しいそばを打ちたいです。」と参加を希望されます。
こんなことでますます「友達の輪」が繋がり、広がります。そんな中から更に本格的にそばを勉強したいとの人も出てきて「全麺協の段位習得」を目指し頑張っています。高名な指導者のもと、仲間内には研鑽に励み3段位や2段位を取得する人も出ています。これらの人が今度はそば教室でグループ仲間にその技術を伝授しております。毎回自分たちで打ったそばを試食し、なんだかんだと批評し合ってレベルアップを図っています。
私もアルバイト先の職場で「年越しそば」を80食作って贈ったり(もう4年目となりました)、また「親子そば教室」の20組に指導をしたりしています。年末には向こう三軒両隣に「年越しそば」をお裾分け、お待ちの方もおられる様になって気合が入るそば打ちです。
正月休みに三重から遊びにやってくる娘夫婦と孫が「じいじのおそばが食べたい」と言ってくれるのは大変うれしいことです。まだ小学2年生と年長さんの2人の孫からはなんとお代りまで注文が出てうれしい悲鳴です。毎年楽しみにしているとは有り難いですね。
先月はとんかつ屋さんで18名の方と「そばサロン」を開き、そばで楽しい時間を過ごしました。好評によりまたまた開催の要望を受けています。そんなこんなで多くの会や教室でいろいろの方々と知り合い、「そばを打つ仲間」「そばを食う仲間」と「楽しく」の繋がりを深めています。これからも「そば」同様「長がーく繋がる友達の輪」を広げてゆきたいと思っています。皆さんも一度そば打ちに挑戦してみては如何ですか?一緒にやりませんか!
四季酩酊 第47回
どうめき きょうざぶろう
酒 坊
前回の「虫明さん」を書いていて文芸評論家の百目鬼恭三郎を思い出した。ペンネームは「風」や「子不語」といい、おどろおどろな百目鬼というのは本名である。
私はSEK(シャープエンジニアリング)一筋の人間であったが、どの部門よりも会社に貢献している部門だと言って憚らない。シャープ製品のリピーターはサービスマンの誠意あればこそである。実に真面目で健気だ。商品の欠陥や故障に対峙する姿を幾度となく見てきた。
逸話をひとつ。今は無い茅ヶ崎営業所は葉山の御用邸を担当していた。天皇陛下がご静養に来る前にカラーテレビの調整の依頼が宮内庁から来る。テレビは車寄せから150mほどの薄暗い廊下を伝って居間にある。ある年に機種の変更が支店の総務部から来て真空管のテレビを引き上げたが、指定されたテレビに信頼がなかったので納めなかった。そしてある夜、御用邸に火災が起きた。本社から「うちのテレビが原因ではないのだろうね」私は、朗らかに答えたものだ。「大丈夫ですよ。テレビはありませんから」このシリーズのテレビは高圧回路が発火する。この火災は放火だった。
さて、百目鬼さんだが、当時、私は東京支店で業務の仕事をしていた。外勤のサービスマンは修理を終えると、「お客様アンケート」ハガキを渡す。意見欄に不満な記入があると電話をして内容をお聞きしていた。あるとき、電子レンジでお怒りのハガキを見て唸った。差出人は「百目鬼恭三郎」とあった。65歳で亡くなる2年ほど前だったが、歯に衣着せぬ毒舌・喧嘩の文芸評論家のお叱りは健在だった。意見欄に書き足らず枠をはみ出している。お叱りを受ける怖さよりもフアンとして、嬉しくて受話器を取っていた。
電話には奥様がでた。一通りのお詫びをして切り出すと、やはり「文芸評論家の百目鬼さん」だった。
卑怯かも知れぬが愛読者の武器で少しは怒りを鎮められたと自己満足をしている。
理科系に文芸だって役に立つ 酒坊
私の野球今昔物語
其のⅡ:『高校野球編』
小 松 唯 道
日本には高校野球という素晴らしい野球文化の花が有ります。しかし今の日本の野球は選手もファンもメジャーの方に向いています。それは日本選手の活躍によってより身近に感じられるという事もあるでしょう。しかしそんな彼等にも間違いなく高校野球の時代が有ったという事です。高校野球の選手にとってその集大成として甲子園があります。また私達が高校野球を愛するのは故郷の匂いがあり、郷土という意識がついて回り汗と涙の感動の物語が生まれるからです。
今回の紹介はやはり私が直接、間接に携わり経験したことをご紹介致します。
昭和46年甲子園初出場以前の30年代にあの蔦監督(徳島商~同志社大~東急フライヤーズ)が選手を引き連れて、度々練習試合に香川県の琴平経由で我が郷里丸亀へ来ていました。理由は二つありました。一つには池田高校は徳島県の山間部に位置し徳島市へ出るよりも隣の香川県へ出た方が早く、もう一つは丸亀高校と丸亀商業のコーチと監督は同志社大の後輩だったことでした。練習試合は蔦監督の叱咤だけが空しく響き、試合結果は両チームとの力の差は大きく、毎回大差で敗れてすごすごと下を向いて徳島へ帰って行った姿を何度も目の当りにしました。
その蔦監督の執念が実り甲子園に登場し多くの感動を呼んだ事は皆様も記憶にある事と思います。豪放な監督は昭和40年代に入り金属バットの導入に対応し筋トレを定着させ豪快なバッティングを武器に、その一方で守備練習は徹底したノック(野手は時に素手捕球)で鍛えハードな練習を積み重ねたと聞いています。
また当初は部員11人の少数だったため「さわやかイレブン」と称えられましたが 「別にウチは、さわやかでも何でもありゃせん。ワシのシゴキがキツイけんついてこれんようになって、それで少のうなっただけじゃけん 」(蔦語録)であり、事実池田の練習は厳しく「日本で一番よう練習しとるんじゃけん、日本一になるんじゃ」(当時水野雄仁選手談・元巨人投手) 事実その通り日本一に輝きました。
戦法としては「攻めダルマ」の愛称の蔦監督は打って打って打ちまくる野球で、乾いた金属音を甲子園に響かせて早実の荒木投手を6回KOし、続く名門広島商を17対2の圧勝で優勝。翌年には池田の水野・畠山・江上vs清原・桑田のPLとの対決は異種格闘技戦?さながらで甲子園は沸きに沸きました。
其の後名物蔦監督が亡くなり長く低迷が続いたが、今年の選抜に何と27年振りに甲子園復活出場を決めてくれました。同じ四国勢として昔を再現させるような活躍を願っています。
ここで余談が二つ、清原選手が池田の豪打に憧れて入学を希望したものの、公立校のため野球留学などは無縁で入学条件が厳しくて断念、PL学園に進んだという逸話が残っています。あと全国で唯一、私立高校の甲子園出場のない県も徳島県です。県下でただ一校の私立高校は徳島商・鳴門などの壁をあと一歩破れずにいましたが、特待生等を含めて近年は力を付けており甲子園も時間の問題と地元は見ていますが、私的には大袈裟ですがこの牙城を公立校は死守して貰いたい気持ちです。
ちなみに今年の春の選抜出場校では私立25校に対し公立は4校で21世紀枠の3校を加えても7校です。全国の現状は圧倒的私学優位の構図の中で徳島県は本当に珍しい記録であり、いつまで維持出来るか?興味深いです。
《 打ち負かし相手転ばす阿波ダルマ 》
この投手の名前をご存知の方は地元の方以外恐らくいないでしょう。私の金沢勤務時代に少々関わった話です。平成6年当時も今と変わらず石川県は金沢vs星稜の対決で盛り上がっていました。そんな中、私も観戦にと足を運ぶと試合前のピッチング練習に汗している中野投手がいました。関係者以外立ち入り禁止の筈の場所なのに、私は吸い込まれるように練習場に入ってしまい腕組みをしてずうっと見つめていました。
練習が終わるとさっきから見ていた私を先輩か関係者の先生と思って丁寧な挨拶を受けました。これから私と彼の会話が始まりました。この会話が後に彼が甲子園で大記録を生んだ遠因だと思い一人で自負しています。以下に会話の内容を再現致します。
中野投手『コンニチハ!ご苦労さんです』 私『おぉ!調子はどう?』 彼『ハイ、エェ~・・・』 私『今日は思い切りだけだぞ』 彼『ハイ!分かりました』 ここで私に彼の本気度が伝わり、私も本音で?アドバイス『今日の星稜には1~2点を怖がらず強気で攻めろ』 彼『ハイ!』 更に私『あとはバックを信じてテンポ良く、ね』 彼『わかりました』 私『応援しているから、勝てるよ』 彼『有難うございます』で会話が終わり一礼して彼は力強い姿を残し去り、私は観客席へと向かう。(あの頃の私は何を考えていたのかね?・・・恥も知らずに)
当時の星稜は県NO.1の山本省吾投手(慶応大~近鉄~オリックス~ソフトバンク)を擁し、松井秀喜の抜けた穴を埋めて優勝候補筆頭でした。その星稜に中野投手は真っ向勝負で挑み2対1で勝利し、見事翌春の甲子園の切符を掴み取りました。これからの中野投手は凄かった。甲子園の晴れ舞台で島根の江の川相手に史上二人目の完全試合を達成し(スコアは3-0)、高校野球史に名を残しました。アッパレ!私の助言が効いたのかな?
《 パーフェクト運も実力アッパレだ 》
尚その翌年、今度は山本投手の星稜が金沢にリベンジを果たし甲子園で帝京には敗れましたが、準優勝を成し遂げて、中野投手への対抗心がレベルアップに繋がり私も嬉しい限りです。
甲子園で開催中の「第86回センバツ高校野球大会」も大詰めを迎えています。皆さんの地区や郷里の学校はどうでしたか? 次回は「少年野球編・会社時代編」を予定しています。
伊 藤 優 世

今回はリビア編をご紹介致します。(今年1月号に寄稿した東独体験の続編です)
リビアでは、出張ベースを含めると2年6ケ月の長期に亘る現地滞在でした。カダフィ独裁政権下の昭和56年から昭和58年にかけてです。
首都「トリポリ」から約200㎞東に位置する「ミスラタ」という都市に国家プロジェクトとして建設される大型の製鉄プラント、その中に建設するオフィスビル8棟が受注内容であり、請負額は約110億円だったと記憶します。
東ドイツとは異なり、リビア国との直接契約であるため、事業を遂行するためには現地法人の設立から税務申告まで現地の法律に従った一連の処理をしなければならず、それだけに大変な事業運営でありました。振り返ればたくさんの思い出がありますが、まずは怖いエピソードについてご紹介したいと思います。
プロジェクトの契約調印式には、日本から来た幹部が出席した。リビア国への入国時の手続きは、重工業省大臣直々の出迎えがあり、フリーパスで入国となった。ところが、その人が出国時の手続きでトラブルとなり大変な目にあった。別室に連行され、褌まで剥がされ素っ裸にされている。入国時にMoney Declarationと言ってリビア国に持ち込む外貨を申告しなければならない。申告額から現地通貨に換金した金額を差し引いた残りが、申告書控えに記録されており、帰国時の手持外貨がそれに合っているかをチェックされる。これがトラブル発生の原因であった。それにしても前日には調印式でテレビにまで映った人物がこのような目に合うとは信じられない出来事であった。
これは契約調印後、出張ベースで現地に滞在した時のことであった。ある日、別の会社だが日本人5人が行方不明となった。ローカルスタッフの中にいた元軍人を介していろいろと探した結果、軍に留置されていることが判った。発見されるまで2週間程かかっている。原因は、5人がある施設を訪問した際、写真撮影禁止区域内で一人が単にカメラを肩に掛けていたことにあった。留置された人物にその時の話しを聞いたが、銃を突きつけられるなど、かなり怖い思いをしたとのことであった。
ローカルスタッフは6~7人雇用していた。その内3名が運転手であるが、一人が人身事故を起こした。そのとき、当人がとった行動は、自ら警察に行き留置場に監禁してもらうことだった。被害者親族からの復讐が怖いため示談が成立するまで安全な留置場に逃げ込んだ、というのがその理由である。
他にもこんなことがあった。ある日突然、ローカルスタッフの一人が顔色を変え事務所に文句を告げに来た。何故かと言うと独身のローカルスタッフが既婚者の家を訪問した。これだけで大変な騒ぎである。日本人には信じられないことだが、アラブの国では女性は結婚すると身内にしか素肌は見せないのである。その理由は、旦那がいないとき女房が浮気しないようにするためだ。肌を隠せば女性は男を誘惑できない、だから浮気は出来ないという理屈である。
リビア国に現地法人を設立すると、パスポートを人質として差し入れしなければならない。これは、外国企業がリビア国内で事業を行って会社清算手続きをしないまま引き上げられることを防ぐ為の措置である。だから私を含め管理スタッフの誰かのパスポートは常に税務署に預けていた。(以下次号に続く)